歌手 > 南沙織
小档案 南 沙織(みなみ さおり、1954年7月2日 - )は、日本の元アイドル歌手。本名は内間(現:篠山)明美。デビュー時は母親の郷里、鹿児島県(奄美大島)生まれとされたが、実際は生まれも育ちも沖縄県。また長年、フィリピン人とのハーフであるとされてきたが、正しくは実母と実父は日本人で実母の再婚相手がフィリピン人ということである。 洗礼を受けたクリスチャンで、その時授かった名前「シンシア(Cynthia 月の女神、蟹座の守護神の意)」を愛称としている。 小简介 歌手デビュー以前、地元沖縄のテレビ番組『100万人の大合唱』(視聴者参加型ののど自慢番組)などでアシスタントのアルバイトをしていた。その頃東京では、CBS・ソニーがデビューさせるべく新たな人材を探していた。ある時、琉球放送のテレビ番組にゲスト出演した男女デュオ・ヒデとロザンナのマネージャーが持ち帰った南の写真が偶然関係者の目にとまり、急遽東京に呼び寄せることとなった。 1971年の春、本土復帰前の沖縄から母親と二人で初来日[5]。CBS・ソニー社長との顔合わせを経て、デビューに向けたプロジェクトが開始された。 レコード・デビューまでわずか3ヶ月足らずというその過程について、作詞家の有馬三恵子は、「あんなにスムーズに新人歌手をデビューさせられた例は、他にない気がする」と語っている。そして「詩心を大いに刺激した」という南のために書かれた詞の中から、「17才」がデビュー曲として採用され(タイトルは酒井政利による)、6月1日に「ソニーのシンシア」のキャッチフレーズを持って歌手デビュー。約54万枚の大ヒットとなった。尚芸名については有馬の進言により、レコード会社内アンケートで決まりかけていた名前が変更され、七夕の織姫に因んだ「沙織」とされた。 デビュー時の南沙織のインパクトについては、写真家・篠山紀信が「彼女の登場は、返還を目前とした沖縄のイメージ・アップのための国策歌手かと思ったくらい良かった。」と述懐している。ただし、実際は沖縄返還に合わせてデビューしたわけではなく、のちに音楽プロデューサー・酒井政利は「そのタイミングは、南沙織が持つ気運のひとつであったのではないか」と著書で書き記している。また、「世代的共感を歌うアーティストの始まり」「日本におけるアイドルの第1号[10]」「元祖アイドル」と評価されることもある。 1971年暮れの第13回日本レコード大賞で新人賞を受賞。さらに、デビューしたその年にNHK『第22回NHK紅白歌合戦』に初出場するなど順調な音楽活動のみならず、長い黒髪と日焼けした健康的な肌で同世代の若者に絶大な人気を博した。ブロマイドも爆発的に売れ、1971年、1972年の年間売上実績では第1位を獲得している。また、同時期にデビューした小柳ルミ子・天地真理らと共に "三人娘" と括られることもあり、当時のアイドルの代表格であった。 1972年から1974年頃までは、筒美京平が手がけた楽曲を中心にヒットを放ち(主な楽曲は下記項目「ディスコグラフィ#シングル No.1-15」参照)、アルバムでは多くの洋楽ポップスもレコーディングした。そのファン層は広く、普段は洋楽しか聴かない層の獲得にも成功したと言われている。 1975年発売の「人恋しくて」では田山雅充が作曲を担当。カバー・ソング以外では、初めて有馬三恵子作詞・筒美京平作曲でないシングルA面曲となった。また、この曲で第17回日本レコード大賞の歌唱賞を受賞。以後、松本隆や荒井由実など、ニューミュージック系のライターも起用するようになった。珍しいところでは、アルバム『人恋しくて』において矢沢永吉からも楽曲提供を受けている("五大洋光" 名義)。1976年には、本人が「大のお気に入りの曲」と名を挙げる「哀しい妖精」を発表した。当楽曲は日本語歌詞(作詞: 松本隆)によるシングル・バージョンのほか、15thアルバム『ジャニスへの手紙』では楽曲提供者・ジャニス・イアンによる原曲そのままの英語バージョンも録音されている。 1978年・春先、資生堂のコマーシャルソングに起用され、尾崎亜美が他アーティストに初提供した作品でもある「春の予感 -I've been mellow-」がスマッシュ・ヒット。歌手としてあらたな方向性を感じさせる楽曲となったが、この年入学した上智大学での学業に専念するため、同年10月のコンサートをもって歌手を引退した。「さよならコンサート」の映像は商品化されたことが無く、テレビニュースや資料用として以外の撮影はされていなかったものと考えられるが、ライヴを実況中継録音したレコードは同年12月5日にリリースされている。なお、テレビでは引退に際し、フジテレビ系音楽番組『夜のヒットスタジオ』で「南沙織 サヨナラ企画」が実施された(同年9月25日放送)。 1979年、引退後に交際がスタートしたという写真家の篠山紀信と結婚。その後3児の母となる。1980年代に南が公の場に姿を現すことは殆ど無かったが、研ナオコが芸能界の交友を書いた著書の中で南について「今ではすっかり、いいお母さんという感じ」と書いている[15]。次男の篠山輝信(しのやまあきのぶ)は、2006年に俳優デビューを果たした。 1983年には、作詞家としての活動が一度だけあった。アグネス・チャンのアルバム『小さな質問』に収録された「ウ・フ・フ」がその楽曲で、作詞者クレジットは "Cynthia" 名義である(作曲は森山良子)。 1991年、第42回NHK紅白歌合戦に出場。オファーを受けた時点では「17才」「色づく街」の2曲を歌う予定であったが、急遽NHKから「17才」のみで、という要請を受け、最終的に「色づく街」を歌うに至った。 1992年以降、「家庭が第一」というポリシーのもと、限定的ながら活動を再開して作品をリリースした(基本的にはレコーディングのみの活動)。この時「シンシア」の名で活動したこともあるが、他に同じ芸名の歌手がデビューしたと言う事もあり、「南沙織」に戻っている。 1997年4月にフィリップモリスのCMソングとなったシングル「初恋」をリリースして以降、新譜の発表はされていない。 2000年6月、歌手デビュー満30周年を記念した完全生産限定CD-BOX『CYNTHIA ANTHOLOGY』が発売された(CD5枚+DVD1枚の全6枚組)。日本の音楽CD-BOXとしては初めてDVDが同梱された作品であり、オリコンのアルバムヒットチャートでは最高62位にランクイン。再プレスがなされるなど好評を得た。またこの頃、リリースにあたってソニーミュージック管轄の公式サイト「Art of loving」では、記念作品が完成した事に対して本人自ら謝辞コメントをした音声が公開されている。 沖縄本土復帰30周年となった2002年、「沖縄タイムス」(5月15日付)のインタビューで沖縄への思いを語ったほか、2003年7月には浴衣姿で被写体となった新聞広告(撮影: 篠山紀信)が掲載された。 2006年3月、恩師である酒井政利の「文化庁長官表彰・音楽プロデューサー45周年」パーティに、久しぶりに夫婦で公の場に登場し、乾杯の音頭をとった。同年6月には、歌手デビュー35周年を迎えるにあたり、全スタジオ・アルバム21枚を紙ジャケット仕様で復刻した完全生産限定CD-BOX『Cynthia Premium』が発売された(CD21枚+DVD1枚の全22枚組)。当ボックスでは「篠山シンシア」として監修も務めあげ、オリコンのアルバムヒットチャートでは最高84位にランクインしている。 2008年10月には、週刊誌『アサヒ芸能』(第63巻第39号)内特集 "70年代アイドルを「感涙の総直撃」" に特別メッセージを寄稿。歌手デビュー当時の思い出や近況等が掲載された。 2000年6月、歌手デビュー満30周年を記念した完全生産限定CD-BOX『CYNTHIA ANTHOLOGY』が発売された(CD5枚+DVD1枚の全6枚組)。日本の音楽CD-BOXとしては初めてDVDが同梱された作品であり、オリコンのアルバムヒットチャートでは最高62位にランクイン。再プレスがなされるなど好評を得た。またこの頃、リリースにあたってソニーミュージック管轄の公式サイト「Art of loving」では、記念作品が完成した事に対して本人自ら謝辞コメントをした音声が公開されている。 沖縄本土復帰30周年となった2002年、「沖縄タイムス」(5月15日付)のインタビューで沖縄への思いを語ったほか、2003年7月には浴衣姿で被写体となった新聞広告(撮影: 篠山紀信)が掲載された。 2006年3月、恩師である酒井政利の「文化庁長官表彰・音楽プロデューサー45周年」パーティに、久しぶりに夫婦で公の場に登場し、乾杯の音頭をとった。同年6月には、歌手デビュー35周年を迎えるにあたり、全スタジオ・アルバム21枚を紙ジャケット仕様で復刻した完全生産限定CD-BOX『Cynthia Premium』が発売された(CD21枚+DVD1枚の全22枚組)。当ボックスでは「篠山シンシア」として監修も務めあげ、オリコンのアルバムヒットチャートでは最高84位にランクインしている。 2008年10月には、週刊誌『アサヒ芸能』(第63巻第39号)内特集 "70年代アイドルを「感涙の総直撃」" に特別メッセージを寄稿。歌手デビュー当時の思い出や近況等が掲載された。