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小档案 吉田美奈子,日本流行音乐界殿堂级的创作型女歌手、女诗人,J-rock、J-po...

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小档案 吉田美奈子,日本流行音乐界殿堂级的创作型女歌手、女诗人,J-rock、J-pop启蒙运动的人物之一。 吉田 美奈子(よしだ みなこ、1953年4月7日 - )は、日本の女性歌手、音楽家、作詞家、作曲家、編曲家。 夫は音楽家・プロデューサーの生田朗、兄は大滝詠一や山下達郎等のレコーディング・エンジニアで知られている吉田保。最初の夫もレコーディング・エンジニアの吉野金次。 小简介 早在1969年,吉田美奈子就开始创作音乐与诗歌。 1971年,她和当时重量级的blues creation贝司手组建了玩票性质的乐队。期间又和happy end等日本新摇滚乐队有了交流,得到如细野晴臣、大泷詠一、松本隆等圈中名人的赏识。 1972年,在大泷泳一的首张单飞大碟中担任长笛演奏。 终于,1973年9月,吉田美奈子的出道大碟《扉の冬》在独立唱片SHOW BOAT公司问世。 这张由细野晴臣主力监制打造的唱片,还集合了如林立夫、铃木茂、松任谷正隆等一批当时pop/rock/folk界的大牌音乐人。 而吉田美奈子包办全部词曲,也显示了她对自身音乐才华的充分自信。 唱片以一种清新、爽快的风格得到了一致的好评,除了备受肯定的词曲功利,吉田美奈子的嗓音也成为一大特色。 现在《扉の冬》已被认为是日本流行摇滚的先驱作之一。 之后,吉田美奈子沉寂许久,直到1975年转投RCA。 在那里她成为山下达郎的长期合作伙伴,几乎包办了那一时期山下达郎歌曲的大部分歌词。 同时,她自己也发行了《MINAKO》、《MINAKO II》(live大碟)、《FLAPPER》、《TWILIGHT ZONE》等唱片。 由这些70年代后半期的唱片,吉田美奈子奠定了自己在乐坛的地位。 埼玉県大宮市(現:さいたま市大宮区)に生まれる。 元々はローラ・ニーロやキャロル・キングのようなスタイルを指向し、1971年5月に、第一期ブルース・クリエイションのベーシスト野地義行とピアノデュオ ぱふ を結成。アマチュア活動時代に、「はっぴいえんど」周辺のミュージシャンとの交流を持ち、1972年11月に発表された大瀧詠一のソロファーストアルバムへ収録された楽曲『指切り』のフルートソロで、プロとしてのキャリアをスタートする。 1973年9月、細野晴臣のプロデュースによるソロファーストアルバム『扉の冬』を発表。RCA/RVC時代の山下達郎のほぼ全てバックコーラスを手掛ける他、数曲歌詞も書いている。角松敏生のコーラス及びコーラス編曲も手がける。 大瀧詠一の名曲で後にシリア・ポール、ラッツ&スター、原田知世&DEEN、キンモクセイらがカバーした『夢で逢えたら』の創唱者でもある。シングルカットの際、「人が書いた曲が自分の代表作になるのが嫌」と言う理由で拒んだ事がある。 2006年12月6日発売の布袋寅泰『SOUL SESSIONS』にて「MIRROR BALL~奇跡の光」の作詞を手掛けた。 かつてはCCCD(コピーコントロールCD)の数少ない肯定派としても知られておりCCCDは音質が劣化している上に再生プレイヤーにも負担を与えるのではないかという指摘に対し、 「音質はたしかに代わるがCDからCCCDになったのだから仕方のないこと。」 「音楽家が生活するためにはCCCDは必要。」 「音質ではなく音楽を聴いてほしい。」等の発言を行い多くの議論を巻き起こした。その発言から約2年後の2004年9月にCCCDでのリリースを中止することを表明した。 一人称は「僕」であることもあった。