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小西康陽(ベース、キーボード、ボーカル) ピチカート・ファイヴのフロント...

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小西康陽(ベース、キーボード、ボーカル) ピチカート・ファイヴのフロントマン的存在で、オリジナルメンバーの中ではただ一人、解散時まで残った。大半の楽曲において作詞・作曲を担当。 高浪敬太郎(ギター・ボーカル) オリジナルメンバーの一人。1994年に脱退。 佐々木麻美子(メインボーカル) オリジナルメンバーの一人、初代ボーカリスト。1987年に脱退。 鴨宮諒(キーボード) オリジナルメンバーの一人。1987年に脱退。 田島貴男(メインボーカル) 1988年、脱退した佐々木麻美子に代わって2代目ボーカリストとして加入。加入当時既にオリジナル・ラヴで活動していたため、これと掛け持ちする形になった。1990年に脱退。ピチカート時代の楽曲「夜をぶっとばせ」は後にオリジナル・ラヴ名義でもセルフカバーされている。 野宮真貴(メインボーカル) 1990年、田島貴男に代わって3代目ボーカリストとして加入。解散までメインボーカルを務めた。 小简介 1990年代の日本において一世を風靡した「渋谷系」と呼ばれる系統に属し、その音楽性のみならずファッションなどの面でも評価が高かった。自らを「ハッピー」、「キャッチー」、「グルーヴィー」、「ファンキー」といった言葉で形容することが多い。日本における人気・知名度は必ずしも低くはなかったが、そのファン層は比較的限定されていた。また、その活動はアメリカやイギリス、フランスなどの欧米諸国にまで及び、このグループを知らない日本人にとっては「意外なほど」海外での知名度は高かった。 劇場版『チャーリーズ・エンジェル』(''00年)で「トゥイギー・トゥイギー~トゥイギー対ジェイムズ・ボンド~」が流れ、ミック・ジャガーもピチカート・ファイヴのファンを公言していた。 熱狂的なファンを指す用語や、公式ファンクラブの名称は「ピチカートマニア!」としていた。 大事件 1984 - 1990 1984年、小西康陽、高浪慶太郎、鴨宮諒、佐々木麻美子の4人をオリジナルメンバーとして結成。当初はドラマーの宮田繁男(のちのオリジナル・ラヴ ドラマー)を加えた5人の予定だったが、4人で「ピチカート・ファイヴ」を名乗ることとなった。 1985年、元はっぴいえんど・ティン・パン・アレー・YMOの細野晴臣プロデュースにより12インチシングル「オードリィ・ヘプバーン・コンプレックス」でテイチク/ノン・スタンダードレーベルよりデビュー。計2枚の12インチシングルを残す。1986年、CBS・ソニーレコードへ移籍。1987年にファーストアルバム『Couples』をリリースするが全く売れず、ソニー側から「ライヴの出来るボーカリストとの交代」を要求される等の事情もあり同年、鴨宮諒と佐々木麻美子の二人が脱退。当時既にオリジナル・ラヴでの活動を開始していた田島貴男を2代目ボーカルに迎え、1988年にはセカンドアルバム『Bellissima!』をリリース。その後も『女王陛下のピチカート・ファイヴ』(1989年)、『月面軟着陸』(1990年)とアルバムを次々と発表して一部関係者の間では話題となるが、どれも商業的には失敗に終わった。 1991 - 1999 1990年、ピチカート・ファイヴは日本コロムビア/SEVEN GODS(後にTRIADレーベル)に移籍した。この背景にはそれまでの所属レコード会社であったCBS・ソニーの販売能力に対する疑問もあったようである。移籍と同時に田島貴男がオリジナル・ラヴでの活動に専念するため脱退したのを受けて、レコーディングやライブでサポートボーカルをしていた元ポータブル・ロックの野宮真貴を3代目ボーカルに迎える。また、高浪慶太郎が高浪"敬太郎"と改名し、1991年に高浪敬太郎コンボ&オーケストラとしてフジテレビ系テレビドラマのサウンドトラックを手がけたのを皮切りに、大量のリリース攻勢を仕掛けていく。 その名が広く知られるようになったのは1993年4月にリリースした「スウィート・ソウル・レヴュー」によってである。カネボウ化粧品「REVUE」シリーズ春のキャンペーンソングに採用されたこともあり、本作はスマッシュ・ヒットとなる。さらに同年6月に発表したアルバム『ボサ・ノヴァ 2001』(元フリッパーズ・ギターの小山田圭吾との共同プロデュースによるアルバム)はオリコンチャートで最高7位を獲得。12月にリリースした「東京は夜の七時」も、フジテレビ系の子供番組『ウゴウゴルーガ2号』のオープニング曲に採用されてさらに知名度を高め、一気に一流アーティストの仲間入りを果たした。 1994年にはミニアルバム『5×5』をアメリカのマタドールレコード(Matador Records)からリリースして北米デビューを果たし、続いてリリースされたアルバム『MADE in USA』も全世界での売上げが20万枚に達した。同年9月にもアルバム『Overdose』をリリースするが、このアルバム発表前に高浪が脱退し、小西、野宮の二人で活動していくことになる。 1995年2月からはアメリカおよびヨーロッパの14都市でツアーを行い、成功を収める。3月には初のベストアルバム『PIZZICATO FIVE TYO〜Big Hits and Jet Lags 1991-1995』をリリースした。 1996年発表のシングル「ベイビィ・ポータブル・ロック」(日産・ミストラルCMソング) のヒットに続き、1997年、小西によって新レーベル*********(readymade) records,tokyoを設立し、アルバム『Happy End Of The World』、ベストアルバム『PIZZICATO FIVE JPN〜Big Hits and Jet Lags 1994-1997』(1997年)のほか、アナログ盤作品やリミックスアルバムのリリース、ライブなど順調に活動を重ねる。 1998年は1月に筒美京平が作曲した「恋のルール・新しいルール」、7月にミディアムバラード調の「きみみたいにきれいな女の子」、9月にザ・コレクターズの加藤ひさしをフィーチャリングした(実態的には野宮とのデュエット)「ウィークエンド」と建て続きにシングルCDがリリースされた。 10月からの新番組サタスマの音楽を小西が手がける事になり、エンディングテーマに「プレイボーイ・プレイガール」が採用され、コーナードラマ『少年頭脳カトリ』のオープニングテーマ(未発売)も「野宮真貴と野宮真貴(ピチカート・ファイヴ)」名義で担当した。「プレイボーイ・プレイガール」は同月発売の同名のアルバム(CD/限定LP盤)のタイトル曲だが、翌11月にシングルカットされ、8cmCDシングルで発売された。 また、アルバムCD「プレイボーイ・プレイガール」の通常盤発売以降、日本コロムビアが立ち上げたJ-POP部門のレコード会社HEAT WAVE(ヒートウェーブ)が発売元となり、2001年の同社清算までの作品は、【********* records,tokyoレーベル、発売元:株式会社ヒートウェーブ、販売元:日本コロムビア株式会社】という形態となる。 1999 - 2001.3.31 1999年のCDリリースはJBL maxisonic seriesと討って、4月に初マキシシングル(ミニアルバム形態に近い)「darlin'' of discotheque e.p.」から始まり、7月の「nonstop to tokyo e.p.」、10月の「パーフェクト・ワールド」、11月の1900年代最後のアルバム「PIZZICATO FIVE」と続いた。 2000年は2月にreadymade recordsのアーティストによるコンピレーション盤を発売し、7月に野宮がソロとしてCDデビュー、8月には小西プロデュースによる「慎吾ママのおはロック」が発売されミリオンセラーを記録した。 9月にシゲル・マツザキとYOU THE ROCK★をフィーチャリングしたシングル「東京の合唱」を発売し、『東京』を一種のブランドテーマとしたプロデュースに傾斜して行くこととなる。9月30日には『女性上位時代』〜『ロマンティーク96』までのSEVEN GODS・TRIADレーベル時代のオリジナルアルバムが再発売された。11月にはオリジナルクリスマスソングである「12月24日」をシングルで発売し、同年のクリスマスまでfeel H"とタイアップしたCM(梅宮アンナ出演)がゴールデンタイムを中心に大量に放映された。 また、「12月24日」と同時にPV集「readymade TV Volume.3」がPIZZICATO FIVE初のDVDとして発売されている。 2001年1月1日、21世紀最初でオリジナルとしては最後のアルバム『さ・え・ら ジャポン』をリリース。『東京』から視野を広げて『日本』をテーマとしたありとあらゆる楽曲が詰め込まれたこのアルバムでは、「東京の合唱」でフィーチャーされた松崎しげる・YOU THE ROCK☆は勿論、雪村いづみ・デューク・エイセス、ロケットマン(ふかわりょう)、横山剣(クレイジーケンバンド)、クレモンティーヌ、イマクニ?、ハナレグミなどの豪華絢爛たるゲストをフィーチャリングした事でも高い評価を受ける。 しかし、2001年3月14日前後に、月末(3月31日)をもってピチカート・ファイヴが解散するとreadymade records,tokyoから急遽発表される。 解散の理由は小西曰く、「『さ・え・ら ジャポン』の出来が、ゲストの力を借りる形で今までになくすばらしい出来上がりで、解散するなら(最高の状態の)今かな」との事。これに関しては『元祖渋谷系が終止符を打つ』などの内容で、朝日新聞などの文化面でも報じられた。 そして解散の日、ベストアルバム『PIZZICATO FIVE R.I.P.〜Big Hits and Jet Lags 1998-2001』をリリースし、かつてのメンバーであった田島貴男や高浪敬太郎、および大勢のゲストを招いてライブ(通称「お葬式」ライブ、オール・ナイトで行われた)を行い、その活動に終止符を打った。 結果として、1999年から2001年3月末の解散までの間に12種のCD・LP盤を1-3ヶ月のハイペースで立て続けにリリースとなった。 解散後 解散から日が経たない2001年6月に、コロムビア時代のシングルA面楽曲を全曲収録した2枚組CD「singles」が、1年後の2002年3月31日にはある種の追悼盤でもあるトリビュートアルバムが発売され、曽我部恵一/オリジナル・ラヴ/キリンジ/リップスライム/市川美和子/水森亜土/夏木マリ/和田アキ子ら豪華アーティストが参加した。 バンド結成から20年経った2004年には、コロムビア在籍時にリリースした映像作品のDVD再発売盤や、ソニー時代のベストアルバムとオリジナルアルバムの再発売盤がリリースされるなど、再評価の高まりが見られる。 さらに2005年、小西は息を吹き返しつつあるコロムビアミュージックエンタテインメントとプロデュース契約をして、columbia*readymadeレーベルを設立し、ピチカートの解散から5年経った2006年3月31日に、同レーベルより旧日本コロムビア時代のオリジナル/ベスト/ライブアルバムの再発売盤をリリースした。これには小西がアレンジしたジャケットがあしらわれており、ライナーノーツの構成がオリジナルと幾分異なる作品もある。また、同レーベルの第一弾アーティスト、野本かりあがピチカートの代表曲である「東京は夜の七時」をカバーした(歌詞は留守番電話→携帯電話と変え、アレンジもほとんど変えられている)。